ここはブログ主の「metujin」が社会問題その他「易」に 尋ねたものを解読する「易卦妄想ブログ」です。 metujin ekikyou 日誌は易卦妄想ブログですので 一切の責任の類は負いかねます、了解の上読んで下さい。 典拠は主に「岩波文庫 易経」を引用させてもらっています、 我流でありもし万が一参考にされる方がいた場合は迷惑をかける 可能性もありますので注意事項にも目を通して貰えればと 思います。注意事項アドレスは以下。 http://metujinekikyou.blogspot.jp/2013/04/metujin-ekikyou-metujin.html http://blog.livedoor.jp/metujin/archives/6458861.html http://metujinekikyou.blogspot.jp/2013/06/metujin-ekikyou.html ◇人が欲しがる未来情報の種別、君子用 小人用。
2018年3月29日木曜日
共通 『「井 二」気象占問筮始末&雑談 プラス佛教の陰陽「小過上」 意味第二弾 』
共通
『「井 二」気象占問筮始末&雑談 プラス佛教の陰陽「小過上」
意味第二弾 』
◇「サブタイトル」
【 佛教的には以下のような考え方があるわけですが、
『 未来はまだやってきてはいない、
過去は既に過ぎた事、反省することはあっても悔やむのは
無意味。 』
ところが我が親は常に余所様と較べては「あれが足りないこれが
足りないと腹を立てる思考パターンに陥ってしまっている。」
人生は何十年あろうとも現実にあるのは
「目の前のこの一瞬しかない。」
~~~~~~~~~~~~~~~
人生は畢竟この目の前の「今一瞬が総て」であるのに全力挙げて
この一瞬を「比較不平不満で満たす努力」をしてしまっている。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
こんな不幸なことは無いわけですね。】
◇◇「井二気象占問筮始末」◇◇
本日既に「2018年3月29日」なわけですね、そして私のトウホグ
某県潜伏アジト
におきましても、雪解けがかなり進んだわけであります。
それで、
昨月の2月15日に以下のような気象占を投稿したわけですが、
◇「参考過去ログ引用」
http://blog.livedoor.jp/metujin-ekikyou/archives/51550421.html
共通 『「井二」【気象情報・2/14】北陸地方と中国地方で
「春一番」発表』
2018年02月15日 09:24
--- 略 ---
◇「サブタイトル」
『「この風はmetujin アジト トウホグ某県に於いても・・・ 」
--- 略 ---
で、その夜間に筮が出ましたので、さすがにお天道様ももう雪を
運ぶのも「井 二」
軒下に来るのは雪では無く、巽の「風」という風景が観て
とれましたので余裕かましてしまったわけです。
さてさてこれがどうなりますやらあと一ヶ月程で結果が出るわけ
であります。
///// 引用ここまで /////
それで結果としましては、
ヤフー天気・災害 様より、「過去の天気トウホグ某A県」
◇「過去の天気」
https://weather.yahoo.co.jp/weather/jp/past/5/3210.html?c=2018&m=1
沿岸(秋田)の過去の天気
2018年
前の年
次の年
1・2月
///// 引用ここまで /////
◇「過去の天気」
https://weather.yahoo.co.jp/weather/jp/past/5/3210.html?c=2018&m=3
沿岸(秋田)の過去の天気
2018年
前の年
次の年
1・2月
3・4月
///// 引用ここまで /////
となったわけであります。確か最大に降ったのが、足首まで
でしたからね、確かに「井 二」爻の風景でありました。
◇◇「ここからは雑談」◇◇
このネタは既に一度投稿してあるのであれですが、
metujin は易「オタク」でもありますが、佛教「オタク」でも
あるわけですね、なので以下のような批判もしてきているわけ
です。
◇「参考過去ログ引用」
https://metujinekikyou.blogspot.jp/2016/10/blog-post_13.html
2016年10月13日木曜日
共通 『「雷山小過 上」大いなる破戒、大いなる亡国
「チベット仏教」』
///// 引用ここまで /////
◇「参考過去ログ引用」
https://metujinekikyou.blogspot.jp/2017/12/blog-post_14.html
2017年12月14日木曜日
共通 『「家人二」【ノーベル賞】 核廃絶ICANに平和賞授与
サーローさん被爆者演説禁止条約 採択で尽力』
--- 略 ---
///// 引用ここまで /////
簡略して書いてしまいますが、世界は「坎 五爻」タイプの平和、
「毒薬拮抗タイプ」(武力拮抗タイプ)
の平和しか無いのでありますからサーロさん
達の理想というのは実質やれないことになるわけです。
疾病ならばこれが毒であると指定できるわけですが、
(ということは「解 二爻」タイプの処方箋「占」がやれることに
なるわけです。)
国際政治の場合は、正義というのは組織の数だけ、もっというと
人間の数だけあるわけですから、現実にはこの「坎 五」タイプ
しか選択肢が無いわけです。
佛教というのはこの「坎 五」のバランスの上に僅かにその存在
を許されている教えに過ぎないわけですから「小過 上」
(この世界には過ぎたる教え)になるのでは無いでしょうか。
これがこれまで説いてきた佛教の陰陽になるわけです、で、
これから書くのは以前書いた、本来の佛教は「占いを禁止する
ことともリンクする概念を書いてみたいと思います。」
◇◇ 「佛教が占いを禁止するのは ・・・ 」
以前書いたかと思いますが、本来の佛教が「占いの如き」を
禁止するのは「意馬心猿」心が未来に行ったり過去に行ったりして
苦悩を深めることしか無いが為に禁止するのであるという論を
提示してきたかと思いますが、
私が我が親と議論するに於いていつも感じてしまう、心癖
というのがあるわけですね、
それは何かと云うと、
◇◇ ◇◇
佛教的には以下のような考え方があるわけですが、
『 未来はまだやってきてはいない、
過去は既に過ぎた事、反省することはあっても悔やむのは
無意味。 』
ところが我が親は常に余所様と較べては「あれが足りないこれが
足りないと腹を立てる思考パターンに陥ってしまっている。」
人生は何十年あろうとも現実にあるのは
「目の前のこの一瞬しかない。」
~~~~~~~~~~~~~~~
人生は畢竟この目の前の「今一瞬が総て」であるのに全力挙げて
この一瞬を「比較不平不満で満たす努力」をしてしまっている。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
こんな不幸なことは無いわけですね。
なので私は、足りないものを数えるのでは無く、あるものを数える
よう懇願しているわけです。
「落語にも似たような話があったように記憶しているわけですが、」
・・・
( 出来の悪さを批判されているのにあれですが、・・・ )
◇◇
無論今一瞬を観察に観察を重ね悟りを開くなんてのは、印度の
ような「樹下石上」の修行が可能な温暖な地域ならやれるわけですが
これが「北傳佛教」が伝播したような
寒冷地になりますと実質やれないわけですね。
やはり完全な御布施によって賄うといったこともできず、
伽藍を必要としますから ・・・・・
何をいいたいかといいますと、これまた「小過 上爻」
この世界には過ぎた教えになるしか無いわけです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
占いが持つ弊害を十分熟知しつつ易の公的器、社会的占筮の面
を利用することも時には必要になるということになるわけです。
反省と計画を建ててしまったあとには、「今この一瞬を大事にする」
思考も推奨されるということです。
◇◇
「とすると今一瞬の考え方も必要であるが計画性という面からは
易経政治占的考え方も必要であることになるのでは無いでしょうか。」
私達が生きているこの世界は上記両方の考え方を以て対処
した方が良いことになるわけです。
※「無論本気で修道される方々に於かれましてはこの限りでは
無いのをご理解いただきたい。」
◇「易より追加」(結局これも天地否思考)
「天地否 二」(|||:::)(|||:|:)
「六二。包承。小人吉。大人否亨。」
「象伝曰。大人否。不乱羣也。」
結局これも「天地否思考」になるようですね、人間というのは
訓練せず放っておくと知らぬ間に「天地否思考」になってしまう
ようですから注意が必要になるわけです、
これは大は国家、小は家を傾ける元になるわけです。
◇「本気で修道される方々の場合は、」
「山地剥 三」(|:::::)(|::|::)
「六三。剥之。无咎。」
「象伝曰。剥之。无咎。失上下也。」
本気で修道される方々の場合は、上手に「占いが如き佛教が
戒として指定する諸悪」を「剥」してその修行を進める必要が
あるということになるようです。
売占の方々に於かれましても、この構図を理解された上で、相談に
乗るのが良いかと思われます。
基本的に「占い」では心の平安は得られないということです。
「反省と計画策定の為には是となるだけであって ・・・ 」
それと「需 三」が如き、巨大なリスクが眼前に迫っているような
時ですね、「リスク管理」の為には必要ということになるわけです。
佛教もまた安定した社会があってこそ、安定した武力の庇護のもと
存在を許されるのでありますから、易にしろ佛教にしろ、
その聖賢の学問は時処人によって生かされるものといえるのでは
無いでしょうか。
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