2014年2月3日月曜日

metujin ekikyou 日誌 ツイッター篇共通。 「頤」卦、「始末」の教えと佛教は似た陰陽。


metujin  ekikyou  日誌 ツイッター篇共通。
「頤」卦、「始末」の教えと佛教は似た陰陽。

□「サブタイトル」
「サボるかもしれないお知らせから。」


---◇「前段&結論」

 今回は、『朝ナマ田原氏、田母神氏に発言させず。』というのをやる
予定でしたが、前段で触ってしまったものが大物過ぎて独立させます、
どっちみ、半島系「旅人」さん方の問題はこの
「山雷頤」(|::::|) 与えられた枠の中で始末をつける、関西の
方々が教えるところの「始末」を身につけてもらうのが先ですからね。

橋下氏も辞任されて都構想の為に選挙に打って出るようですから、問筮
ネタというのは沢山あるわけですが、先にこちらを。

 さて冒頭お知らせから、来週からですね月の中頃、私用にて投稿が
空くようになるか、通信障害した時のように携帯からのショート投稿 
になるか思案中ですので、ご承知おき頂きたい。
長くなるようでしたら、当然フォローは解除の方向でということで。

 metujin  の年筮が良くないのは書いてありますが、それが実現した場合
の保険をかけておかないといけないですからね、

まだ書けずにいるものが若干ありますので、
ずっと以前からステマになるからここには書けないとしてきたものも
アドレスと使用上の注意だけは置いていくかどうか、 ^^) ・・

あと易病や占い病に効く、というか我執の病に効く、源流の仏教のものを
もう少し、


 ---◇「過去ログ引用抜粋」
 http://blog.livedoor.jp/metujin-ekikyou/archives/35427366.html
《2014/1/52:13
 metujin ekikyou 日誌 共通、お正月企画。
 『易経&仏教&武田邦彦教授ガリレオ放談 20回 誰が決めるのか 「正しい」
 とは何か?1』 》

《□「サブタイトル」
「易との相互補完関係」》 

 *** 引用ここまで ***

□ 実際お正月企画ですでに書いてありますが、これも続編ということです
ね、

仏教の議論なんてのは、やり始めたらもう高価な経典やら
論書がいくらでも欲しくなりますからね、別名「ひもじい」の metujin
には厳しい事なんですね。 ^^) 

 プラスしてこっちはこっちでカ○○的団体を批判してますので、 
今やっている政治ネタと合わせてあっちこっち○だらけ。 ^^)
なので、仏教系も典拠論拠はそれなりに出てくるんでありますが、芸風
から、そっち、こっち系に波及する可能性がありますので、大まかな概念
だけですね書けるのは。

インドに生まれた仏教は北伝(大乗仏教)も開始したわけですが、インドと
いう恵まれた
土地を前提とした教えからはどうしても離れるよりなかったわけであり、
気候の厳しい土地で(樹下石上)(対価を得るタイプでは無い、真のお布施を
貰う。)なんて当然無理。
後述しますが、彼らが何故に堕落したかと云うならば僧院定住を余儀なく
される環境に至ったからなんですね。

呑象嘉衛門さんは仏易説として増上寺失火後の再建の問筮を依頼に来た
大教正福田上人に「頤」卦(|::::|)「頤 五」を
もってこれを説かれていますが、象を観るにまさにこれはこの通り。

ただこれは前提に伽藍建立の是否を問うものでありますから、
それを前提に読むべきかとは思いますが 佛教ヲタであったmetujin の
目からは、これは気候の厳しい地方に佛教が進出するにおいて、(北伝)
僧院止住となり、その附属する学業、医療その他の文化技術をもって
政治と結びつき一旦は堕落するが、その後「頤」の陰陽の流れに沿って
復活する様を説いたものになるようです。
 

---◇
「明治十六年 増上寺福田上人との問答」「頤 五、仏易説」「抜粋引用」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/760557
「国会図書館蔵、高島易断増補版 義の章 コマ番224- 」
「仏易説」(合略仮名、当用漢字に無きは修正の後引用)
※「勝手意訳」

『 
彖に曰く、頤貞吉、観頤自求口実と、古(いにしへ)の高僧彼の国家を
裨補(ひほ)(たすけおぎない)し、衆庶(しゅうしょ)を利済(りせい)するの
行願の故に、或いは施薬院を興し、悲田院を設け、病者は就きて療養する
所あり、貧者は依て救済する所あらしめたる等、
----略---

然るに凡ソ物 利あれば必ず弊(へい)あり、彼の当初開山の徳行に依り、
国家の功徳ありし等に依て開創せられたる諸大拙(だいせつ)(大寺)に
住せる宗徒等、寺禄(じろく)に安んじ、学行を勤めず、竟(つい)に三衣
衣鉢の境界を忘れ、
----略---

初爻の辞(ことば)に曰く、
舎爾靈龜、觀我朶頤、凶
(なんじのれいきをすてて われをみておとがいをたる きょう)
と、----略---
僧にして能ク戒をたもち、学を勤め、淵黙修定して、外(ほか)に求むる
こと無き者は、凡俗を脱盡(だつじん)して、聖解をも得るに至らん、
是(かく)の如キは、猶(なほ)霊亀と貴ぶべきがごとく、尊重するべしとせん、
然るに澆季(ぎょうき)(よのすえ)の弊風(へいふう)右等智行の僧は、世に
ある希(まれ)にして、彼の三宝物を盗用するの穢僧等(えそうら)国家の
奉養(ほうよう)の厚きを座食するを常とし、淫酒(いんしゅ)乱行(らんこう)
醜穢(しゅうえ)窮(きわま)りなく、
----略---
※(ニ爻、三爻、四爻は手抜きします。)

第五爻の辞(ことば)に曰(いわく)
拂経。居貞吉。不可渉大川と、
此の爻は則チ今日筮して遇ふ所の主爻なり、
乃チ 以テ現今の景情と観るべし、拂経とは、佛教(ぶっきょう)の旨趣
(ししゅ)に随(したが)はざるの義なり、夫レ維新の始め制度改革に依り
従来我が物の如ク思ひし寺領を奉還(ほうかん)(かへし)せしめられしより、
初めて従前の尊大は、我が行徳に依りて得たるに非ざることをも悔悟し、
ようやく智行の修せざる可(べか)らざるに心つけり、是(こ)の時に当たりて、
政府又諸宗僧侶に肉妻帯、俗復勝手たるべきの令を出されたり、
----略---

上爻の辞(ことば)に曰く、
由頤。厲吉。利渉大川とは、是(こ)れ今後百年間の佛門の形状を謂(い)ふ
なり、由頤とは、第五爻の政府、僧侶中に清浄如法にして学行兼修、能ク
人民を教導する者を挙げて、之(これ)に保護を加ふるを謂フ、厲吉とは、
僧侶の益々勉励して教導に従事せば吉なるを謂フなり、
----略--- 』

※本来は仏教に附属する医療その他の文化にて民を救済する意図によって
相互利益を図ったわけですが、当然 
「然るに凡ソ物 利あれば必ず弊(へい)あり、」 

これに振り回されて堕落するようになる。 

※丁度増上寺の福田上人が呑象嘉衛門さんに相談された時が、「頤 五」
爻の時になるわけです、
そして現代がその上爻、この前引用した通り、明治以降仏教の源流に対して
の研究が盛んになり、今や、南伝上座部仏教の方から日本に来て論書を
著作として発売する時代ですからね。
何よりも metujin のような無学な者が直接簡単にその情報にアクセスする
時代になったということはこれはすごい事になるわけです。

なので呑象嘉衛門さんが残したこの仏易説も、その通りになったと云う事
になるわけです。

この系統の問筮は文化財の関連で朝鮮の仏教文化財も観てきましたが、
どうも彼らのは「頤」(|::::|)の枠からすら外れ、「剥」「復」
(|:::::)(:::::|)といったことになっているようであって
これは今回のテーマであるところの、「始末の外」になってしまう
わけです。「頤」は文明の象でもありますから、其の都度失って・・
といった事を輪廻しているようです。


 では独立させてしまったので、この「頤」卦とブッダが述べた事を
すりあわせてみますと、

一切というお経があります。( sabba=whole)

---◇「典拠引用の引用」
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama70521.html
「南伝 相応部経典35-23 一切
漢訳 雑阿含経 13-17 ?生聞一切」

『「比丘たちよ、なにをか一切となすのであろうか。それは、眼と色
(物体)とである。耳と声とである。鼻と香とである。舌と味とである。
身と触(感触)とである。意と法(観念)とである。比丘たちよ、これを
名づけて一切というのである。』

※この方は
【http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/index.html
なお、『ダンマパダ(法句経)』を除いてすべて『阿含経典 全六巻』
(増谷文雄訳)からの引用です。】

との事。

□ ここには感覚器官とその対象しか出てきませんが、なんとこれが
一切であって全部です。
霊魂も何も出てこない、
(これは霊的なものを否定するものではありません。)

「頤」は何かの枠といった考え方もできますから
肉体の枠をもって釈尊が述べているのが解るわけです。
前回も述べましたが、目とその対象によって眼識が合成される、耳とその対象
によって耳識が合成される、舌と其の味によって・・接触とその対象に
よって、これらが総て合成されて意と法(観念)が出来上がるのが
解るわけです。

 これは要するに人間はこれらの感覚器官からの情報に引っ張られた
存在であって、これらの感覚器官からの情報を条件として我見が出来上がる
ことを意味する。
 普通は何かずっと不変の霊魂のようなものがあってと考えてしまいがち
ですが、お釈迦様はこの六処が大元なんだと述べているわけです。
これが我見我執苦悩の元です。

私見ですが、人は死んで五蘊(肉体)が消滅しても、これ引きづられた
何か執着したエネルギーのようなものが一般に霊として扱われている
ものでは無いかと思うわけです、なので苫米地氏は般若心経はボロボロに
間違えているとはいいますが、何が大事で何が重要かと云うならば、
この六処とその執着から自由になる教えを組み入れて、日本だけでなく、
中国東南アジアといった広域で霊験あらたかとされているのはこれはこういう
理由があるからでは無いかと思うわけです。
 経典にしろ何にしろずっと信任される歴史というのは理由があってのもの
でしょうからね。

「頤」は当然食物を食す意味もありますので食事を必要とする存在としての
意識を持つ必然も無いわけであり、
先に書いたように、これは環境が厳しくてインドのような恵まれた環境
では無くて、必ず伽藍を必要とする地方の宿痾みたいなものとも共通
するわけです、

 そもそもブッダは政治や権威に近づかないようにと教えたわけですが、
この教えに背いた形になったチベットが国を失い、我が国の仏教が堕落
したのもこれは一面仕方ない部分があるわけです。
ただ、これも「頤」の中に収まっている分にはなんとか挽回する可能性
もあるわけですが、韓国のようになってしまうと、・・・


---◇「外国に志を置く方々の隠れ蓑と苦悩増大の・・・」

「帰妹。往凶。无攸利。」
「雷沢帰妹 上」変卦「火沢けい」(::|:||)(|:|:||)
「上爻  爻辞  女承筐无実。士さくに羊无血。无攸利。」
「女筐(かご)を承けて実なく、士、羊をさくに血なし。
 利ろしきところなし。 」
「象に曰く、上六の実なきは、虚しき筐を承(う)くるなり。 」
※(典拠は「岩波文庫易経」ヨリ、以降引用は同左)

□ これはお馴染みマニフェストの約束の箱の中には何も無く、
そういった方々を政権に上げた、日本の為に真に働こうという方々をして
鬼か幽霊に見えるといったマスコミの構図になるわけですが、こういった
ものも宗教系団体の力と云うのもあるわけです。
そもそもお釈迦さんの宗教はお金がかかるようなものでは無いです。

志が外にあるというのは、苦悩解消の教えすらねじ曲げて資金集めの
為のものが強調されるようになる。これは苦悩増大の法です。 ^^)
嘆かわしい事であります。 


---◇「大有たる公的資金にぶら下がる為の隠れ蓑」

「火天大有 初」変卦「火風鼎」(|:||||)(|:|||:)
「无交害。匪咎。艱則无咎。」

宗教は「鼎」として内卦「巽」として世間を良くする為のものなのに、
これを「大有」たる公的資金ぶら下がりの為に利用しようとする人たち
がいる。
これも裏事情や内情でみると解るわけですが、「頤」では無く、「剥」
「復」になっているのが解るわけです、これも良くないですね。
これもよく「旅人」さん方に対して書いている警報につながるわけです。
宗教に咲いた徒花になるわけですが、これも時代の風を読んで方針転換
しておかないと先々厳しい事です。
これは誰かが、その組織を利用して特定のところに利益供与につながる
わけですから、

みんなが賢くなるより外無いですね。


□ 「噬ロ盍 ニ」変卦「火沢けい」(|:|::|)(|:|:||)

この爻は毎度お馴染み猿も木から落ちる、弘法も筆の誤り、目利きも騙される、
そういう爻です。

今「旅人」の方々が新たに祖国から人を入れて、・・・という動きが盛ん
ですが、これも古くからの在日商工人の方々の迷惑でもあり、
尚且つ、人種が違うのを見誤っている。(反日教育を受けた意味での。)

易がこのテーマでこれを出してきたと云うことは、当然そういった宗教系の
方々がそれを支援してといった事でありますが、
もうボチボチ目覚めてもいい頃だと思うわけです。
宗教やるにしても社会をボロボロにしたらダメですね。
内卦初爻から四爻にかけての「頤」それが変じると、「火沢けい」と
「家人」同等の公金の「兌」 所謂社会保障ぶら下がりの象です。

まず、公的資金は無尽蔵には無いことを認識されるところから始める
べきではないでしょうか。


□「節 初」変卦「坎為水」(:|::||)(:|::|:)
「不出戸庭。无咎。」

この卦はかつて川越シェフに出された卦であり、余計な発言をするとその
立場危うしという象です、内情は「頤」そのままですね。
この卦裏事情は「火山旅」でありますから、当然「旅人」の方々への
警報であって、余計な「兌」たる資金要求をすると、目立った挙句に
世間目線での「豊 上」「渙 上」商いの継続に支障を来すようになる。
もともと祖国からの戦乱を逃れてきたのであれば、その趣旨を忘れない事
です。 
 もともとの宗教に割り込みして、・・・といった趣旨でやっても
宗教の明かりが消えてしまったのでは、その時点で価値を失うわけですから
ね、
価値を失った宗教をして世間ではガランドウと云うのですよ。
逆に箱だけあって中身なし、明かりなし。



********************


*** 蛇足 ***

 お正月企画のところで空や縁起の法だけでは仏教にならないと書いたか
と思いますが、今回書いた感覚器官とその対象から生じてくる識や観念
にはめた縁起の法、構造図いわゆる
「蘊処界三科の法門」が仏教の肝の部分です、霊的なものは形而上のもの
として発言しない議論しない。

世間にスピリチュアル的なものは残念ながら仏教で云うところの常見
といって偏るとされ、しかもこれが○ルト的(霊感商法)的なものの弊害を
伴って社会悪にまでなっている部分があるわけです。 
なので、個人的には苫米地の述べているのはあぁこの方は「断見」の方
だなぁとは思いましたが、社会的な害悪を取り除くのはこれぐらいでない
といけないでしょうから、なんにせよ苫米地氏の見解は尊重されるべき
ではないでしょうか。
(これを書くのはおこがましい事ですが、)

易病や占い病の良くないものの一端には、我執を抱えたまま未来や過去に
意識がいってしまって(意馬心猿)
心ここに非ずの状態を作りだすわけです。どんな問題でも今現状を観察し
把握するところからその解決の糸口が始まるわけであり、そういう方
と一緒に仕事をした事がありますが、こういう方が上に来ると仕事が
進まない、まとまらない、しまいには顧客が怒りだす。 ^^)
こういうのは、他人を怒らせるのに上手な方ということで、運も何も逃げて
しまうわけですから、気をつけていただくべきでは無いでしょうか。


なお以前から書きました通り、この構造を理解してからは、自虐ネタが
大好き人間になってしまったわけですが、易を扱うからには「大有 五」
を意識するようにと厳しく易につつかれておりますから、
世間で立場のある位置に就かれている方々におかれましても、威厳を保持
しつつ上手にやって頂きたいと思います。

□「天雷无妄 五」変卦「火雷噬ロ盍」「无妄之疾。勿薬有喜。」
(|||::|)(|:|::|)
易が再度指摘を呉れたようなので、追加しますと、確かチベットの
ダライ・ラマ猊下がインドに逃れた陰陽はこの一つ先「无妄 上」でも
あったんですね、
「離」(|:|)の教えでは無くて「天」(|||)の神様を信仰するに
なってそれが統治機構に見事にハマったようなんですね、
これは今の問題を観察する仏教の筋から外れ、問題を蓋してしまう象です。
権威主義的になって意見が言えなくなったというのもあるんでしょう、
ちなみにお釈迦様はどんどん批判してくれと言った方のようです。

「天地否の天雷」さん方は毎回批判している事ですが、原発が破裂した
ような痛い思いをした時に方針転換しておかないと、国民が住む場所を
失いかねないわけですから、くれぐれも批判に蓋するような事をしたら
イケマセンですね。


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