2015年2月21日土曜日

metujin ekikyou 日誌ツイッター篇共通 『【社会】「雪国なのに、なぜLEDにした!」LED信号機、雪付着し  見えなくなる事例頻発 』 「山火賁 初」






metujin  ekikyou  日誌ツイッター篇共通
『【社会】「雪国なのに、なぜLEDにした!」LED信号機、雪付着し
 見えなくなる事例頻発 』
「山火賁 初」


◇「サブタイトル」
「賁 初 解説」




◇「記事掲示板引用」
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1423891100/l50
【社会】「雪国なのに、なぜLEDにした!」LED信号機、雪付着し
見えなくなる事例頻発

---略---

http://www.sankei.com/politics/news/150214/plt1502140010-n1.html

///// 引用ここまで /////



◇ 今回の問筮は戯れにやったものなのですが、あまりに的をついた
答えが返ってきましたので、取り上げるものです。
今回は呑象テキストがメインかな。 ^^) 


◇「問筮」
「この陰陽とは一体何か。」
「山火賁 初」



「卦  辞」
「賁。亨。小利有攸往。」

「山火賁 初」
主卦「山火賁 」(|::|:|)
変卦「艮為山 」(|::|::)
「初爻  爻辞   賁其趾。舎車而徒。」
「その趾(あし)を賁(かざ)る。車を舍てて徒(かち)す。 」
「象に曰く、車を舍てて徒すとは、義として乗らざるなり。 」
※(典拠は「岩波文庫易経」より、以降引用は同左)



http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/760557
国会図書館蔵 高島易断増補版 義之巻 コマ番「124-」
「賁 初九」解説 
「勝手意訳につき原文の確認及び文章利用の際は一報を」

『初九。賁其趾。舍車而徒。
 象伝曰。舍車而徒。義弗乘也。

賁其趾 とは、趾(あし)の装(よそほ)ひを為すを謂ふ、車は富貴の人の乗る
所、徒歩は貧賤の人の為す所なり、
舍車而徒とは、車の乗るべきあれども、之(これ)を捨て徒歩することなり、
又歩行を以て徳行の行に充(あ)て、形容する義あり、此の卦は文飾(ぶんしょく)

の象なれば、六爻皆文飾の義を以て辞(ことば)を係(か)く、而(しか)して
其の文飾たるや自然をたっとびて、人為を賤(いやし)み、其の服を飾る
を悪(にく)みて、その徳を修むるを好む、故に初九は乗車を以て飾りと
為さずして、徒行(とかう)を以て賁(かざり)と為し、車を得(う)るを以て

---略---

適(かな)ふ者なれば、象伝に之(これ)を釈して、義弗乘也と曰ふなり、
此の爻、六四に応ず、六四は互卦(三四五)震の中爻なり、震を車と為す、
今乗るべきの車、前に在るも、賎人(せんじん)(いやしきひと)の徒行(とかう)
すべきは、固(もと)より其の分なるを以て、舍(すて)て乗らず、君子の
敢えて飾(かざ)らざる者は、則(すなは)ち其の能(よ)く飾る所以(ゆえん)
なり、 』

『「占」剛正明良なる賢士(けんし)の未だ出世の手掛(てがか)りを得(え)ず
して、野処(やしょ)する象なり、故に車に乗らず、徒歩して自ら其の労
に服するなり、名誉を願(ねが)はずして、旧業に安んずべし、福運未だ
至らざるの時とす、

---略---』


http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/760557
国会図書館蔵 高島易断増補版 義之巻 コマ番「125-」
「賁 初九」占例 某貴顕の運気を占ふの事。
「勝手意訳につき原文の確認及び文章利用の際は一報を」

『「占例」明治十九年、某貴顕の気運を占ひ、筮して賁の初爻を得(え)たり、

爻辞曰。初九。賁其趾。舍車而徒。

断に曰く、賁は地火の火、噴出して、平地を突起せしめ、以て山を生ずる
の卦なり、然るに此の卦を賁と名(なづ)くる所以(ゆえん)の者は、凡(およ)そ
地は平遠(へいえん)(たひらとほく)にして脚下(きゃくか)(あしのした)
に踏む者なり、山は土壌の集まりたるに過ぎずと雖(いへ)ども、巍然(ぎぜん)

として雲表(うんへう)(くものうへ)に聳(そひゆ)るに至りては、衆目
皆之(これ)を瞻仰(せんきゃう)(みあほぐ)す、故に山は地の飾りの如し、
因(よ)りて之(これ)を賁と謂ふ、賁は飾るなり、又此の卦象を細言(さいげん)
(こまかにいふ)すれば、恰(あたか)も名山の麓(ふもと)に炬火(きょくわ)

を焚(や)くが如し、火光(くわくう)(ひのひかり)は山色に映(えい)じ、
燦然(さんぜん)として観るべし、之(これ)を人事に観るときは、内卦の火は
即(すなは)ち明らかなるなり、外卦の山は高くして仰(あおぎ)見る者なれば、
大(おおひ)に天下に運動して、衆人の上(かみ)に立つの卦とす、

然らば則(すなは)ち其の運動の方向如何と云ふに、地火の火、噴出する者
なれば、必ず民間より決起する者なり、民間より決起せんとせば、須(すべから)く
衆人の目に立つ程の働きを為さざる可(べか)らず、是(ここ)に於いて賁の
用始めて起こる、故に、爻辞に賁(かざる)其趾(あしヲ)に曰ふ、夫(そ)れ

座して動かざれば、足袋も不用なり、下駄も不用なり、又何ぞ趾(あし)を
賁(かざ)ることを用ひんや、然るに今其の賁(かざ)ると云へば、四方に運動
することを知るべし、而(しか)して其の運動するには、車に乗らずして
徒歩せり、其の徒歩スル者、商売等なれば、草鞋を穿ちて行(ゆ)くべしと
断ずべきも、苟(いやしく)も身は華族に列し、維新の元勲にして、今将(まさ)に

天下に運動せんとする時なれば、無論遊説に出るものと占(うらな)はざる
可(べか)らず、然らは其の説く所の論は如何(いかん)と云ふに、則(すなは)ち
賁の主義を唱(とのふ)る者なり、賁の主義とは、説を飾りて天下の耳目を
集(あつむ)る者なり、嗚呼賁も亦(また)甚(はなはだ)しと謂ふべし、
抑抑(そもそも)某貴顕は木戸大久保西郷等の諸賢と肩を比(なら)べ名を

ひとしくす、然り而(しか)して一旦廟議(べうぎ)の相合はざるや、決然勇退
せられたり、蓋(けだ)し(思うに)当時の心事如何を知らずと雖(いへ)ども
、識者は、皆嘆惜(たんせき)(なげきおしみ)して、人心の同じからざるは、
猶(なほ)其の面のごとく、人世は決して我意(わがい)の如くなるべき者に
非(あら)ざれば、万事和解して相共同し、共に興(とも)に政府に立(たち)て、

聖明(せいめい)を輔翼(ほよく)(たすく)せられなば、衆心も安堵すべく、
後進(こうしん)の師表(しへう)とも為るべきに、甚(はなは)だ短気の事なり、
是(こ)れ明治の新天地を造出しながら、又自ら一朝の忿(いかり)に之(これ)を
こぼち去るに同じと評(へい)せり、然るに今又大いに為すことあらんと
欲し、賁の主義を以て天下に唱(とな)へらる、其の主義は是(こ)れ賁なるが

故に、其の志望或いは成るべしと雖(いへ)ども、初爻変ズレば艮為山と
為る、艮の卦は両山並立して相応ぜず、彼は彼たり、我は我たりと云ふが
如き者に過ぎず、然らば此の結果如何と云ふに、一歩を進みて、第二爻の
位置に上(のぼ)れば賁(かざる)其須(ひげ)とあり、須(ひげ)を賁(かざ)る
とは、大官人の謂(いひ)なるを以て、某貴顕は我が説得して団結したる部下
を捨て、終に入閣せらるべしと、

後果たして此占(うらなひ)に違(たが)はず、今は青雲の表(へう)に立ち
ぎぎ乎(こ)として動かす可(べか)らず、是(こ)れ賁の賁たる所以(ゆえん)なり、
読者仰(あおぎ)見て可(か)なり 』

※(注釈が不完全ですが、後に機会があればバージョンUPさせる予定
 になります。)


///// 呑象嘉右衛門テキスト引用ここまで /////


◇ 今回、
 呑象テキストを目当ての方には参考になるかとは思います。
交通信号機というのは、将(まさ)にこの象でありまして、外卦の「艮」(|::)
ポールとその上にかぶさっているアングルによって内卦の信号ランプ
「離」(|:|)がぶら下がるわけです。

(|::|:|) (|::|::) 

実際は右か左かにポールが立っているわけですが、そういうことです。
  _________________
( |::|:|         )  こんな感じかな。 ^^) 

それで変卦側が「艮為山」(|::|::)として信号機の信号ランプが
初爻たる一般運転者に見えない状態なのでありますから、 

易の表現力というのは凄いものだと云えるのではないでしょうか。
そして世間目線での内情互卦が「水山蹇」(:|:|::) 信号が見えない
ので車が進めません。
~~~~~~~~~~

 何でかというと普通目線内情互卦が、「雷水解」(::|:|:) 
信号の処に氷が付着して見えないので ・・・

 これは易が提示してきたものであってこちらは何も弄ってないんですね。
それでもこれだけの表現をしてくるわけです。


◇◇ それで易の「辞」を振り返ってみますと、

「山火賁 初」
主卦「山火賁 」(|::|:|)
変卦「艮為山 」(|::|::)
「初爻  爻辞   賁其趾。舎車而徒。」
「その趾(あし)を賁(かざ)る。車を舍てて徒(かち)す。 」
「象に曰く、車を舍てて徒すとは、義として乗らざるなり。 」


云うまでもなく、何か事故があったところで責任の所在がはっきりしない
のであるからそういう時は

「車を舍てて徒すとは、義として乗らざるなり。 」

だと云っているわけです。呑象占例に於いても、

《初爻変ズレば艮為山と
 為る、艮の卦は両山並立して相応ぜず、彼は彼たり、 》

こんな面倒なのは他にないわけです。


◇「水火既済 初」(:|:|:|)変卦「水山蹇」(:|:|::)
「初九。曳其輪。濡其尾。无咎。」
「象伝曰。曳其輪。義无咎也。」

これも秀逸ですね、初爻は一般の方々の位置でもあり、それが「離」「艮」
で見えたり見えなかったり。

既済なので多少電力がかかったところでLEDにする必要もなく、既存の
熱を発するタイプでいいわけですね。
そうするとその 信号の輪が見えるようになって解けた雪が流れる。

「曳其輪。濡其尾。无咎。」

この辞のまんま。  

易が指摘してくるものはこういう感じになるわけです。 

◇「離為火 初」(|:||:|)変卦「火山旅」(|:||::)
「初九。履錯然。敬之无咎。」
「象伝曰。履錯之敬。以辟咎也。」

そもそも信号機の役割を考えるならば、万民がその判定に随い、事故を防ぐ
役割があるわけですね、
となれば、省電力がどうのこうのと云うのはあくまでこの役割を充たした
後考えるべきことになるわけです。


そうでなければ、「沢山咸 上」「咸其輔頬舌。」
(:|||::)(||||::)となって
トラブルに逢った方々はもちろんの事、現場の警察官も仕事がやりにくくて
仕方が無いことになってしまうわけです。 


したがって易の側としては、そういう不完全な信号システムの場合は、
(信号が見えないような環境の時は)


「火水未済 三」(|:|:|:)変卦「火風鼎」(|:|||:)
「六三。未濟。征凶。利渉大川。」
「象伝曰。未済。征凶。位不當也。」

法理の「鼎」が機能しない状態「未済」のところへは敢えて突っ込むような
ことをしないよう指摘してくるわけです。


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