2014年1月5日日曜日

metujin ekikyou 日誌 共通、お正月企画。 『易経&仏教&武田邦彦教授ガリレオ放談 20回 誰が決めるのか 「正しい」とは何か?1』



metujin ekikyou  日誌 共通、お正月企画。
『易経&仏教&武田邦彦教授ガリレオ放談 20回 誰が決めるのか
「正しい」とは何か?1』 

□「サブタイトル」
「易との相互補完関係」 



---◇『武田教授講義「正しい」とはなにか。』
http://www.youtube.com/watch?v=pCdmKiIN5xU
『武田邦彦教授ガリレオ放談 20回 誰が決めるのか「正しい」とは
何か?1』
『公開日: 2013/03/06 』

---◇「このテーマ武田教授講義 第二話、」
http://www.youtube.com/watch?v=nk4HBUrIaug
「武田邦彦教授 ガリレオ放談 第21回 仮の正しさ」

---◇「このテーマ武田教授講義 第三話、」
http://www.youtube.com/watch?v=p5iOj5vbgWI
『武田邦彦教授 ガリレオ放談 第22回 被曝とプロの倫理』
『公開日: 2012/04/26』

---◇「このテーマ武田教授講義 第四話、」
http://www.youtube.com/watch?v=z3qIHOIzD7U 
『武田邦彦教授 ガリレオ放談 第23回 科学と人間の脳の限界』
『公開日: 2012/05/10 』


---◇「武田邦彦教授へのインタビュー」
https://www.youtube.com/watch?v=hJBY46WaX7s
『武田邦彦教授「バッシング?全然平気です(笑)」 独壇場に司会
 呆然 』

『公開日: 2013/03/29 』
『「正しい」とは何か? 武田教授の眠れない講義』を発売した武田
邦彦教授が登場。武田教授は低線量被曝問題、-地球温暖化など幅広い
ジャンルで議論、時には世間の常識にも真っ向からぶつかるスタイ-ル
が人気だ。同著では原発からタバコ、男女関係の諸問題について自ら
の考えを語る。日-本では絶対的なものと考えられがちな
「正しさ(=正義)」は、利害関係の数だけ存在す-るという。そして、
作られた「正しさ」が信じ込まれて「空気」となってしまう危うさを
-指摘する。
http://www.j-cast.com/mono/2013/03/28... 』


---◇「記事動画 」 
http://www.youtube.com/watch?v=ACz-4UMld1A
『苫米地英人 神と宗教について、全てを語る 
 公開日: 2013/10/19 』

(0.39.34-)
苫米地氏「スコトーマ」(盲点) 
※(自分が重要だと思ってないものは観えない) 


---◇「日本テーラワーダ仏教会 HP」
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi131.html
『根本仏教講義 』

『23.刺激論
(5)パパンチャのからくり』

『妄想を作る働き(Papanca)』


---◇「つらつら日暮らしWiki〈曹洞宗関連用語集〉」
http://wiki.livedoor.jp/turatura/d/%B5%BA%CF%C0

『戯論

【定義】

 読み方は「けろん」。戯れに弄する談論の意味であり、具体的には、
 妄想分別が言語に表れること。差別的対立に基づく議論。
 形而上学的な議論。無益な言論、無意味なおしゃべり、仏道修行に
 役立たない思想や議論。道理を欠いた思慮分別に基づく議論などの
 意味である。』


*******************

---◇「前振り他」

 三が日も過ぎましたが、お正月企画。 ^^) 

□ 後述しますが、戯論もパパンチャも同じ概念です。
苫米地は言及されていないようですが、苫米地氏が説くところの
『苫米地氏「スコトーマ」(盲点)』も同じような概念を向きを
変えて説いたものでは無いかと、勝手に思っております。 
^^) 

 それで何故に武田教授の講義が噛むのかと云われるかもしれない
ですが、それは氏の講義を聞いて頂ければ分かっていただけるものと
思います。

 この講義を聞けば人生かなり楽になると思いますよ。
 専門家の定義等々実に秀逸な講義です。
 

 オイオイお前が扱ってんのは、易経だろうと云われるかとは思います
が、
 なにせ metujin  は今年も年筮が良くないんですね、 ^^)
したがって、いつこのブログツイートが途切れてもいいように、
metujin  が知っていて世間様のお役に立ちそうな事は、極力書いて
おきたいと思います。

 metujin はかつてはアンタッチャブルとされてきた、案件を多々
触って批判してありますが、原発系、旅人系の ・・・ 

実をいいますと、こことは別に宗教系の社会問題化的なものも批判
して ・・
の人間ですので、なのであっちこっち敵視されるような事だらけ
・・・ 

仏教系でも、時間をかければ典拠を示した議論は可能ではありますが、
それをやると、いろいろと危険が危ない事になりそうなので、
あくまで易を軸として茫洋とかいつまんだものを提示してみたいと思い
ます。

もっと謂うと生意気ではありますが、この最高峰の頭脳ともいえる、
苫米地氏の論にまで突っ込みどころが沢山あるわけですね。
 ^^) 

ただ、
metujin  の頭脳の如キは記憶がイカレてしまっておりますので、
あくまで概念的なものだけでありますが。 
なので、今回書くのはよくありがちな、苫米地氏はじめ他の先生方の
受け売りでは
無いことを先に断っておきたいと思います。

◇  
 日本の仏教は葬式仏教になってしまいましたので、抹香臭いイメージ
がどうしてもありますが、
以前般若心経を引用して書きましたように、

 ---◇「過去ログ引用」
 http://blog.livedoor.jp/metujin-ekikyou/archives/34901370.html

《自分は曾て「自意識過剰」の病に苦しんだ事があり、これを克服する過程に
 仏教ヲタにもなったわけですが、
 仏教の三法印「諸法無我」を理解するに及んで、苦悩の根本であるところ
 の我執のシステムを考えるに、そのうち自虐ネタが苦にならなくなったんで
 すね。 般若心経にある

 「受・想・行・識」
 「無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味
 ・触・法。」

 感覚器官から入力された情報が合成されて、我見と我執を構築し、それに
 ただ捉まって囚われているのが人間と云う存在。
 もっと云うと○的なものまで、これがあてはまるわけです。これを
 ○○界○○の法門といいます。 》

 *** 引用ここまで *** 

□ 
 「縁起の法」だけででも「空」だけでも仏教にはならないんですね。
上記のものは関係性の法則ですからね、普遍的な法則を何に当てはめる
のかが問題。(典拠ありますが、細かい区分けは横に置いておきます、)

 それでお釈迦様は何に当てはめたかというと、
上記の感覚器官とその対象、そしてそれに因って生じるところの「識」
に着目するわけです、
 そしてこれが教科書にもある十二縁起(・・六処、受、愛、取・・)
と繋がるわけです。

これが仏教としての「縁起」のコア部分です。
抹香臭いものなどどこにも無い。 感覚器官とその対象から生じる「識」
が合成されるついでに諸々の苦悩も一緒に合成されるんですよという事。

 先にテーラワーダ仏教会のHPを引用してありますが、
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi131.html
《妄想を作る働き(Papanca)》

《なぜ腹が立つのか?

 そこで妄想するときは、欲か怒りか無知という感情が付いてきます。
 そして感情でごちゃごちゃ妄想したことを「私の知識」と思い込み、
 さらに「私の知識は正しい」と誤解するのです。そして「自分はこんな
 ことを知っている」と、堂々と皆に喋るのです。しかし何を喋っても、
 それはその人が作り上げたパパンチャの世界にすぎません。》

 *** 引用ここまで ***

 ここに武田教授が指摘するところの「正しい」が出てくるわけです。
もっとツッコミますと、感覚器官とその対象から生じる「識」によって
「私見、我見」が○○○から腹が立つのです、
他人事であれば、腹の立つ事も無い、どうぞご勝手に。ということに
なる。
 これが煩悩苦悩のからくりになるわけです。

※(再度上記典拠引用)

《ニッパパンチャの世界とは、一切の妄想概念から解放された自由の境地、
 いわゆる涅槃のことです。妄想概念を破ることは、簡単なことでは
 ありません。しっかり心を育てなければならないのです。たとえば耳に
 音が触れたとき、どんな音が触れようとも、「聞こえた」と、そこで
 ストップするのです。》

 *** 引用ここまで ***

般若心経で読んで聞かせているのは、成仏できない○達に感覚器官からの
縛りから離れて自由になった方がいいですよ。と述べて
いるわけですね。 ^^) 
形而上のものは「無記」とはされていますが、これも上記のような事が
根底にあるからですね。
禅にしても、仏教特有の禅はまた別でありますが、ここでは省きます。

 単純には感覚器官とその対象から生じる「識」が一緒に作ってしまうとこ
ろの心の捏造機能を○○する作業ということになるわけです。 


---◇「仏教は本来占い禁止」

「我見、我執」を育てるのは仏教の目指すものとは逆になりますから、
本来は禁止です、
世間には沢山いますね、目が泳いで心ここにあらず、・・・ といった
方々が、
 あれは心が未来にいったり、過去にいったりしてるからなんですね。
易の卦にも遊魂の卦というのがあるようですが。
 
 何にしても一旦は心を今此処に戻して貰ってから話をしないといけま
せん。

また、宗教を信仰するのであっても、社会がボロボロではどうにも
ならないわけです。
天災ならまだしも、人災で難民になるような事があってはイケマセンしね。
そもそもが仏教のような教えは社会が豊かであるのが前提なんですね。

なので、易と仏教は相互補完関係にあるかと思いますので、
易の「五爻君子統治占」と一緒に今後とも、取り上げてみたいと思うわけ
です。

 継続すればの話ですが。 ^^)  


---◇「真の供養は生きている方に対して。」


「卦  辞」
「損。有孚。元吉。无咎。可貞。利有攸往。曷之用。二き可用亨。 」

「山沢損 初」
主卦「山沢損 」(|:::||)
変卦「山水蒙 」(|:::|:)
「初爻  爻辞  已事すみやか往。无咎。酌損之。」
「事を已(や)めてすみやかに往けば、咎なし。酌(く)みてこれを損すべし。 」
「象に曰く、事を已めてすみやかに往くとは、志を合するを尚(たっと)
 ぶなり。」
※(典拠は「岩波文庫易経」ヨリ、以降引用は同左)


---◇「占例、友人某 借金を請ふの占」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/760558
「国会図書館蔵、高島易断増補版 礼の章 コマ番177- 」
「損初九」(合略仮名、当用漢字に無きは修正の後引用)
※「勝手意訳」

『「占例」友人某来たりて曰く、朋友急に金を借(か)らんと請ふ者あり、
之を貸し与(あた)ふるも迷惑することなきや否や、請ふ、之を占はん
ことをと、乃ち筮して、損の初爻を得たり、

爻辞曰。已事?往。无咎。酌損之。 
断に曰く、損の卦たる、内卦は兌の口を開きて依頼するの象あり、外卦の
艮は止まりて肯(がえ)んぜざるの象あり、故に身を損するの困難あるの
卦と為す、故に損と曰ふ、今初爻を得れば、彼れ、困難に陥りて、
必死の時とす、万事を擲(なげう)ちて、速やかに助けざる可(べか)らず、

凡ソ人の平素節倹して金銀を蓄積するは、斯くの如き危急に際し、其の情
を酌量し、我を損して彼を救はんが為めなり、足下(貴殿)熟慮
せよ、子孫に譲るに巨万の財を以テするも、子孫の心善ならざれば、
家忽(たちま)ち亡(ほろび)ん、苟(いやしく)も丈夫(じょうふ)たる者、
死後香華の供に甘んぜんや、

現在志合ふて数年朋友たる者、一大事に
臨み、何ぞ貨財の失得(しっとく)を思ふ者あらん、故に事を已めて、
速やかに往き酌(しゃく)して之に損せよと曰ふ、宜しく足下(貴殿)の
金を損して、朋友の厄を助くべし、天命かくの如し、片時も猶予すべきに
非ず、速やかに金を携(たずさ)へて彼に赴くべし、 』


※※、これは易だからこそ云えることであって、この見分けは普通の
方にはつきませんからね、

「苟(いやしく)も丈夫(じょうふ)たる者、死後香華の供に甘んぜんや、」

 生きているうちに友人なり、家族なりに喜んでもらえる方が一番いい
わけです。
人的なものは下地に異常な欲だとかが無い限りは、辞占にしたがっても
○○○だったかと思います。

 ただ、人様の金融資産をあれこれ言う権利があるわけでは無いですから
参考までに書いておきたいと思います。
易が協力すると云っているようですからね。


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