2017年1月1日日曜日

metujin ekikyou 日誌 新年のご挨拶






metujin  ekikyou 日誌 新年のご挨拶


2017年 平成29年 

新年あけましておめでとうございます。
読者様方にとりまして
幸多き年となりますよう心よりお祈り申し上げます
本年もよろしくお願いいたします



 昨年といいますか大晦日に、人生の大晦日をテーマに
読者様方が忌避される筈の仏教の話しを書いたわけですが、
もう少し付け加えておきたいと思います。
「易病や占いにつきものの依存の疾(やまい)を防止するにも必須」

 前回仏教の精髄をピックアップした般若心経を例に「ハンバーグ定食」
の喩えを書き、

「ハンバーグに相当するメインは、(蘊・処・界)三科、感覚器官とその
対象の論が「ハンバーグに相当するものであり」

 ◇参考資料「ウィキペディア般若心経」 
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C
 《是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、
 無色・声・香・味・触・法。》

( 苦悩の要因たる我執を解くためのもの。 )

空も縁起もそれを解説するための「付け合わせ」(目玉焼きだとか
ポテト、キャベツに相当するもの) とまで書いたわけですが、

 結局これが何故に表に出ないかと云うならば、北傳大乗仏教
(寒い地方、伽藍建屋を必要とする地方に伝播した特性上 )


「ある程度御布施を得る必要性」が生んだ「北傳大乗仏教のアキレス腱」
故になるわけです。
( このアキレス腱にカル○、霊感商○、といったあだ花が咲く
 下地になってしまったわけであり、スピリチュアルといった常見外道
 の如きものも ・・・ )

 本来の原始仏教に於いては此(かく)の如きでありますので、
商売っ気はおろか、御布施をもらうのですら何かの対価にもらうわけ
では無いのが解るのでは無いでしょうか、

 で、これを書くとまともな伝統仏教の方々まで批判することに
なってしまうわけですが、
( まともな伝統仏教の方々を批判する意図は毛頭ありません、批判
 対象はあくまで善意を裏返す社会悪に対してのものです。)

呑象さんが仏教の陰陽を筮した際に「頤」卦が提示され、



「明治十六年 増上寺福田上人との問答」「頤 五、仏易説」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/760557
「国会図書館蔵、高島易断増補版 義の章 コマ番224- 」
「仏易説」
※「勝手意訳につき原文の確認及び文章利用の際は一報を」」

『 
彖に曰く、頤貞吉、観頤自求口実と、古(いにしへ)の高僧彼の国家を
裨補(ひほ)(たすけおぎない)し、衆庶(しゅうしょ)を利済(りせい)するの
行願の故に、或いは施薬院を興し、悲田院を設け、病者は就きて療養する
所あり、貧者は依て救済する所あらしめたる等、
----略---

然るに凡ソ物 利あれば必ず弊(へい)あり、彼の当初開山の徳行に依り、
国家の功徳ありし等に依て開創せられたる諸大拙(だいせつ)(大寺)に
住せる宗徒等、寺禄(じろく)に安んじ、学行を勤めず、竟(つい)に三衣
衣鉢の境界を忘れ、
----略---

初爻の辞(ことば)に曰く、
舎爾靈龜、觀我朶頤、凶
(なんじのれいきをすてて われをみておとがいをたる きょう)
と、----略---
僧にして能ク戒をたもち、学を勤め、淵黙修定して、外(ほか)に求むる
こと無き者は、凡俗を脱盡(だつじん)して、聖解をも得るに至らん、
是(かく)の如キは、猶(なほ)霊亀と貴ぶべきがごとく、尊重するべしとせん、
然るに澆季(ぎょうき)(よのすえ)の弊風(へいふう)右等智行の僧は、世に
ある希(まれ)にして、彼の三宝物を盗用するの穢僧等(えそうら)国家の
奉養(ほうよう)の厚きを座食するを常とし、淫酒(いんしゅ)乱行(らんこう)
醜穢(しゅうえ)窮(きわま)りなく、
----略---
※(ニ爻、三爻、四爻は手抜きします。)

第五爻の辞(ことば)に曰(いわく)
拂経。居貞吉。不可渉大川と、
此の爻は則チ今日筮して遇ふ所の主爻なり、
乃チ 以テ現今の景情と観るべし、拂経とは、佛教(ぶっきょう)の旨趣
(ししゅ)に随(したが)はざるの義なり、夫レ維新の始め制度改革に依り
従来我が物の如ク思ひし寺領を奉還(ほうかん)(かへし)せしめられしより、
初めて従前の尊大は、我が行徳に依りて得たるに非ざることをも悔悟し、
ようやく智行の修せざる可(べか)らざるに心つけり、是(こ)の時に当たりて、
政府又諸宗僧侶に肉妻帯、俗復勝手たるべきの令を出されたり、
----略---

上爻の辞(ことば)に曰く、
由頤。厲吉。利渉大川とは、是(こ)れ今後百年間の佛門の形状を謂(い)ふ
なり、由頤とは、第五爻の政府、僧侶中に清浄如法にして学行兼修、能ク
人民を教導する者を挙げて、之(これ)に保護を加ふるを謂フ、厲吉とは、
僧侶の益々勉励して教導に従事せば吉なるを謂フなり、
----略--- 』

///// 呑象テキストここまで /////


 これは何を意味するかというと、本来「小過 上」たるべき
仏教が、

「雷山小過 」(::||::)
   ↓
「山雷頤  」(|::::|)

つまりは、伽藍を得てみんなが食べていくことの出来る明かりに変化
してしまったことを意味するわけですね。
「もっというと行政の象でもありますので、江戸時代の寺請精度
(戸籍の管理)兼用になったのも ・・・」

(なので「頤」卦のルートを下から順番に辿ったわけですね。)

外卦の「艮」(|::)は「伽藍を必要とする寒い地方の特性上」と
読むことができるのでは無いでしょうか。

ところが仏教が出てきたインドに於いては「樹下石上」つまりは
外卦は「震」(::|)でもなんとかなる環境になるわけです。

◇◇ 
 結局読者様方に述べたいのは、この「アキレス腱」に「頤」たる
花の蜜を求め、善意を裏返す「社会悪」のあだ花が多く咲いているのだと
いう認識をもっていただきたいわけです。

(蘊・処・界)三科に関しては
「あの博覧強記の大天才たる苫米地氏ですら言及されないわけですので
 ・・・」

当然依存を誘発するものは「占い」の如きもそうでありますので、
「占いは裏付けを取る也、裏綯う也」を必ず実践していただきたい
と思う次第。

「小過」(::||::)の卦は「大坎」(:|:)つまりは
論理的思考の卦であり、
しかも仏教に於いては禅定で作る高い次元のものまでその範疇に含め
るわけですから、この世界に於いては確かに「過ぎたる教え」になる
わけです。

(チベットはこの陰陽をこの世俗世界に於いて使ったが為(た)めに 、
仏教の法王と世俗の統治者 王 を一緒にしてしまったがために、
結局ヒマラヤ越えて難民になる道を歩んでしまった。) 


易で観る分には何がよくなかったのかまで解るわけですね。
したがってこの易の智恵をもって「公吉利」「私咎凶」のラインを
しっかり見極めるようにしていただきたいと思うわけです。


◇「易より追加」
「水沢節 三」(:|::||)変卦「水天需」(:|:|||)
「六三。不節若則嗟若。无咎。」
「象伝曰。不節之嗟。又誰咎也。」
 
 この爻は「いつまでもあると思うな親と金、無いと思うな運と災難」
の爻ですね、
スコットランド独立投票の時は、北海油田を当て込んだ独立は不可(ふか)
と易が提示した爻です。

毎度旅人さんや韓国に対しては「頤」たる「始末」&「節」の大事
を説いているわけですが、なかなかこの「節」を見極めるのは
人間キビシイものです。

したがってこの「節」を見極めるのも易からヒントをもらって
「裏付け&裏綯う措置」を講じるよう提言しておきます。


「水天需 四」(:|:|||)(:|||||)
「六四。需于血。出自穴。」
「象伝曰。需于血。順以聽也。」

 この爻は需(ま)つ卦の中にあってイレギュラーな爻であって、この場合
荏苒(じんぜん)と時を過ごしてはいけない爻です。
(迅速に対応すべしということ。)
(この血は鮮血であって即応の対応が必要となるわけです。)

これも需(ま)つのか、即応するのかの見極めを易からヒントをもらう
ということですね。


◇ 易はこの世界に対処するための智恵でもありますが、私が提示
したようにワイドバンドで使うと「仏の智恵」まで網羅するものです。

チベットダライラマ猊下ですら気づかなかったことを易は
「ここがいけなかったが為にチベットの民は難民となった」と教え
てくれるわけです。
(そもそもお釈迦さんは権威には近づくなと教えたわけですね。)

易によって磨いた智恵は ・・・

たとえ仏教の法王たる人物でも、世俗の王をやるならば国民を守る
ための政治(軍事)に手を染めざるを得ない。

ということですから、
くれぐれも、「雷山小過」(::||::)を○○いして「坎為水」
(:|::|:)の陰陽にしてしまわないことです。

宗教の「恒」を世俗の政治にあてはめてはイケナイ見本になってしまった
わけです。
無理にやれば他国の侵略に抗しきれず大変な数の国民が血を流すこと
になるわけですからそれは大きな罪を作ることになるのでは無い
でしょうか。


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